2009/12/26

音楽嫌いの好きな音楽—バッハとコルトレーン


 30を過ぎた頃、それまで聴いていた音楽が突然みんな嫌になってしまい(そういうことってありますよね)、クラシックとジャズばかり聴いていた時期がありました。クラシックとジャズといっても、聴いていたのはバッハとコルトレーンが殆どで、それ以外の曖昧なものや中途半端なものは全く聴く気がせず、当時の私にとってバッハとコルトレーンは、真の音楽というに相応しい高度で崇高なものであり、そしてそれは未来への限りない可能性をも孕んだ音楽として私の中に強固に響いていたのでした。そんなわけで、では先ずバッハのこの曲から聴いてください。



 芸術の世界の素晴らしい点は、その優劣の判断は最終的には聴衆の一人一人に委ねられているということです。もちろん技術的な優劣はあるのでしょうが、極端な例で云えば私にとってはバッハもshaggsも同じ地平で語られるべき音楽で、どちらがより優れているという評価はできません。それと矛盾しますが、私はこのバッハの『マタイ受難曲』の冒頭のコーラスを初めて聴いた時、これはこの世に存在する音楽の中でも、最も崇高で最も審美的で最も劇的で最も精神的な音楽だと思いました。この映像はカール・リヒターによる1971年の録音のものですが、私がその時に聴いたのは同じくリヒターの1958年の録音で、以来、バッハといえばリヒター、この人間の根源にある感情を揺さぶるような演奏が、私の中ではバッハの標準仕様となっています。リヒターの死後、バッハの解釈も変り急速に古楽化が進んでピリオド楽器による演奏が主流になったようですが、そういう演奏を聴いてみても、やたら軽っちく聴こえて全く気に入りませんでした。



 続いてもカール・リヒターで『ミサ曲ロ短調』の同じく冒頭のコーラス。これぞ究極のコーラスで、人間の声の真の迫力というか、人間の声が持つ底知れない神秘的な力を感じます。あまりにも圧倒的な演奏に、なんか、生きててすいません、というような気持ちになってきますね。カール・リヒターについては、演奏ももちろん大好きですが、加えて好きなのが彼の面貌で、信仰と哲学が深く刻み込まれた真摯な顔立ち、知性をたたえた大きな額、悲哀と慈愛に満ちた眼など、音楽家/演奏家として姿のみならず、一人の人間としても非常に魅力的な男性だと思います。彼はバッハの重厚な音楽構造や深い精神性を浮き彫りにしましたが、私はそれがバッハの音楽表現にもっとも適したものだと思うし、それ故にリヒターの演奏が名演だと言われているのだと思います。



 リヒターはオルガンも弾くしチェンバロも弾くのですが、私の好きなオルガニストといえばこの人でした。リヒターがグラモフォンの古楽レーベルである“アルヒーフ”のアーティストであったことから、私のお気に入りレーベルも自ずと"アルヒーフ”になり、ヴァルヒャも当然のように好きになったのです。といいながらこの演奏はEMIでのもので、アンマーチェンバロによる『ゴールドベルグ』ですが、このキラキラし過ぎないアンマーチェンバロの音色が好きでよく聴いてました。一般的には『ゴールドベルグ』といえばグールドですが、私も高校生くらいの頃はグールドが好きで、それこそ熱狂的に聴いていたのですが、大人になってからはグールドはあまり好きではなくなりました。というのも、彼の若い頃の生意気で自己陶酔しきった伊達男ぶりが次第に鼻につくようになったのと、また遺作の『ゴールドベルグ』の演奏風景を見ると、年をとって毛も薄くなりさらに猫背になって、それはまるで猿が演奏しているかのように滑稽に見え、鼻歌まじりのそれこそカンタービレな演奏態度も、私の思うバッハとはちょっと違うなあ〜という印象になってきたからです。



 さて、続いてはコルトレーン、先ずは有名な「マイ・フェイヴァリット・シングス」から。これは65年のライブで大分フリーに傾いてきた頃の演奏ですが、今聴いてもかなりハイ・テンションな演奏で非常に感動的です。コルトレーンは凄まじいスピードで進化してその短い音楽人生を駆け抜けましたが、そこには常に自己の音楽を突き詰めて、自らを追いつめて行くような求道的な姿勢がありました。



 次は61年のライブで「インプレッションズ」。61年頃のコルトレーン・カルテットにはエリック・ドルフィーが加わっていて、ただでさえテンションの高い演奏がさらに加速度を増して炸裂しています。この当時のライブを収録した『ライブ・アット・ヴィレッジヴァンガード』はジャズ史に残る名作で、私も一時期毎日こればかり聴いていました。誰かが、人生には「コルトレーンでなければだめな季節がある」と云っていましたが、その頃の私はまさにそういう時期で、精神的にも穏やかな夕凪状態の今からすると、随分と若かったんだなあと、当時の自分を感慨深く思い出したりします。

『Bach: Sacred Masterpieces』













『The Complete 1961 Village Vanguard Recordings』